高村薫さん・五條瑛さん・福井晴敏さん・古処誠二さん等の小説、海外の海洋小説、歴史、B'z、を糧に生きている人間の日常。
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本★鴻巣友季子『明治大正翻訳ワンダーランド』
2005年11月03日 (木) | 編集 |
本★鴻巣友季子『明治大正翻訳ワンダーランド』(新潮新書)2005.10.20

私は、大学生になって初めて、明治期の翻訳本を読みました。衝撃でした。
今のような言文一致体ではなく、海外小説の翻訳でさえ擬古文によるもので、
かなり違和感がある。
例えばですね・・・・↓二葉亭四迷訳、ツルゲーネフの『あいびき』より。

 「あるいは勇ましく捲き上ッたもみあげを撫でてみたり、
  または厚い上唇の上の黄ばみた髭を引張てみたりして」
 「さももったいらしくほとんど眉ぎわよりはえだした濃い縮れ髪を撫でて」

・・・このもみあげの描写はどうですか!
江戸期はほとんどが黒髪という人種ですから、明治に入ってから初めて、
金髪だの亜麻色の髪だのという描写をしたんだと思うんですが。
ごてごてと装飾の多い文体は、意外や意外、体臭の強そうな人物の描写には
ハマるんだなと感心した覚えがあります。

しかし、可憐な少女もこんな↓言葉遣い・・・。

「もしそうでもなッたらモウわたしの事なんざア忘れておしまいなさるだろうネー」
「なぜといッてお前さん――アノ始末だものオ……」

農夫の娘ということなので、その時代にはそのイメージなんでしょうが、
今や“お前さん”は、年増女がお侍なんかにしなだれかかって、
「ねぇお前さん、もうお帰りなのかい」なんて言っているセクシーシーンしか・・・
(時代劇の見過ぎです)

二葉亭四迷自身が、

「私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、
 これでも原文はきわめておもしろいです」


不思議とソノ何なんだ?
・・・・・翻訳家の苦労が偲ばれます。

翻訳って、本当に難しいですよね。
こなれた日本語にしようと思っても、どこまでが許されるのか。
一文一文はこなれていても、段落として見たときに、違和感を感じることがあります。
それは、文章と文章の間の部分、つまり書かない部分が、
読み手と書き手では異なっているということで。
その言語の思考法によって違うのか、単に個人的な相違なのか、
それも面白いところですが。
イタリア文学を教えておられた先生が、イタリアの小説を例に挙げて、
「あれだと、“男と女がいた”と書いた次の文では、もう寝てるんだな」と
日本の小説との違いを言っておられたのですが、そういう文化の違いも、
日本語に翻訳したときの違和感に繋がるんですよね。
昔の香港映画でも、「えっ、なんでそう繋がるの?!」と思うことがよくありました。
階段を一段飛ばして駆け上がるような、そんな展開で。
その結論に至る説明が、ないんですよね。そういうところが魅力なんだけど。

私はずっと、日本語として読みやすいものこそ上手な翻訳だと思っていたんですが、
この著書では、森田思軒の言葉を現代語訳して、

翻訳とは言葉の差異を均してしまうものではなく、
 違っている様をそのまま見せるものだ


と、書かれていました。
そうか、そういう考え方もあるか・・・!と、すごい刺激になりました。
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