高村薫さん・五條瑛さん・福井晴敏さん・古処誠二さん等の小説、海外の海洋小説、歴史、B'z、を糧に生きている人間の日常。
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川村博忠『近世日本の世界像』
2005年02月23日 (水) | 編集 |
川村博忠『近世日本の世界像』(ぺりかん社)2003.12.24

近世(江戸時代)の日本が、世界(特に中国)をどうとらえていたのか、非常に興味を持っています。
それは、以後の日本が辿った、戦争に至る思想的な道筋が、わたしにとっては突拍子もないように思えるからです。
あれだけ憧れていた国に対して、掌を返したように非情になれるものなのか、と。
この本を読んで、少し糸筋が見えてきました。
どこかにすっごく憧れる→すべてを肯定し吸収しようとする、という、それこそが落とし穴だったのですねー。

1551年にザビエルの布教を許した大内義隆は、「西域より来朝の僧、仏法を紹隆のため」に
西方の天竺から新しい仏教をもってきた僧侶だと、思っていたらしいのです。
織田信長にしても、最初は “仏教の新しい宗派”、くらいの認識だった。
西洋についての知識があまりにも少ないし、当時の仏教の各宗派混戦状態を見れば、さもありなん。
で、その後、これは危険な宗教であると考えられて禁教、のち鎖国に至り、
横文字の本は輸入禁止!そんな本持ってたら磔獄門やで!となった。
しかし徳川吉宗の頃には、中国語に訳された本なら輸入が認められることになり、
そこで、西洋の天文学、医学等が日本でも知られるようになりました。
「南蛮」という言葉が記す通り、中国以外の外国は、野蛮な国だったのだから、
そんな国の技術が日本に広まったのには、まず「漢訳」ということが重要な要素でした。
崇め奉っている中国語で書かれているんだから、これは素晴らしい書物なんだ!という思いこみ。

その後、蘭学を志した人々が、なんだこの天地というのは球体なのか、と気づいた時に
じゃあチャイナのことを「中国」「中華」と呼び、日本のことを「葦原ノ中津邦」などと呼ぶのは
ずいぶんな思い上がりではないか、と考える。
「天ヨリ之ヲ定ムレバ、赤道線下の邦ヲ中央ト言ハン」と司馬江漢は言っています。
彼は、「上天子将軍より、下士農工商、非人乞食に至るまで、皆以人間なり」とも言っていて、
(当時はかなり勇気が要ったに違いない)身分社会への批判を行っています。

で、そういう平等観が出てくるのとは別に、
イギリスの植民地拡大やロシアの南進などから、日本も蝦夷地や樺太などへ進出すればいい、という人もいる。
結果的には、こういう拡大方針の人が多かったんでしょうね。
(今でも、業績のふるわない企業がどんどん支店を増やそうとしてドツボにハマりますからね・・・。)
それから面白いことに、ロンドン、パリ、アムステルダムなど主要都市がいずれも緯度50~60度の
高緯度にあることを指摘して、日本も首都をカムサッカ(カムチャッカ)に移し蝦夷地を開発すれば、
イギリスに比肩するほどの一大富国になれると、高緯度国家への願望を持っている(笑)
そんな寒いのイヤやってー!(笑)

でまあ、イギリスみたいになりたかったのね・・・。
新知識を得ることは大切で、司馬江漢のような平等観を持つようになる人もあれば、
植民地を増やせば儲かる!みたいに考える人もいる。
これが全てではなく複雑に絡み合っている心情なのでしょうが、やっぱり知識は使い方次第・・・。

自国が世界の中心と考える中華思想というのは、確かに傲慢だと思いますが、
でも先進技術を持つ大国があったからこそ、それを手本にも出来たわけで、
周囲の国が“漢字”を共通して持ち、中国語を公用語として使えたが故に、
周辺国同士も交流が出来た。
朱印船時代はベトナムとかなり貿易してるんです。中国の周辺一帯が漢字文化圏なんです。
 
害のない“俺様”キャラがいいな。ほらスネイプみたいな・・・・・・・・。
・・・いやあれは害ありすぎだろう(笑)
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