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本★栗林忠通『栗林忠通 硫黄島からの手紙』
2006年08月27日 (日) | 編集 |
本★栗林忠通『栗林忠通 硫黄島からの手紙』(文藝春秋)2006.8.10

第109師団長、小笠原兵団長として硫黄島で指揮を執った栗林中将が、
その硫黄島から、家族に宛てた手紙を集めた書簡集です。

アメリカが日本の本土を爆撃する為には、飛行機で飛んで来なければ
ならないのですが、片道十数時間の燃料を、往復分も積んで飛行するのは
今でさえ容易ではないでしょうが、当時では尚更。燃料の補給地が必要です。

硫黄島というのは、火山の噴火で出来たまだ新しい島で、
農作物が育つような地質ではなく、水も乏しく、居住地には適しません。
ただ、それほど迄に両国の軍隊が硫黄島にこだわったのは、燃料の補給等、
日本の本土爆撃の為の重要なポイントになる土地だからです。
ここを奪取されれば、家族のいる本土が本格的な空襲にさらされる。
だからこそ、この島を、死守しなければならなかったのです。

栗林中将自身は、硫黄島を死地として覚悟を固めていました。
そんな想いの中で、書かれた手紙の内容と言えば、
空襲を受けた時の対処法や、東京の我が家の隙間風が入る箇所の修理法や、
妻や娘の夢を見た時の感慨など。(↓84ページ)
“お父さんはみんなの顔がはっきり見えたので会ったも同じ様でした”

終戦の約1年前にして、これが“敗戦”であることを、栗林中将は包み隠さず
家族に語っています。そうして、その後を案じています。

昭和19年8月25日、妻・義井宛

“之れから更に恐しい敗戦の運命から国中どう云う事になるかも分らない事を思い”
                           (36ページ)

それから、硫黄島に空襲のあること、米軍の強大な戦力を、率直に語っています。

昭和19年9月6日、妻・義井宛の手紙では、

“当地は先便にも申す通り毎日かゝさず空襲があります。一日に二度もある事、
 夜寝たと思えばあり夜中にありと云う調子で一刻の油断も出来ません。
 今日九月五日の新聞を見ましたが、当地の空襲の状況など殆ど書いてないのに
 驚きました。”(46ページ)

この期に及んで、国民に、正確な戦況が伝えられていないことへの不安は、

“日本が敗戦になって米軍が関東平地に上陸でもすると云う場合、
 日本の混乱は想像に余りある”(昭和19年10月19日妻宛)

の文章にも表われています。

大本営の決定事項に異議を挟むことは、中将身分では不可能なのでしょうが、
そんな中、家族だけでも覚悟を決めて欲しいという願いからか、
米軍の空襲を詳細に認めた手紙があります。

昭和19年11月17日、妻・子供達宛

“当地へ毎日来襲するのはB24ですが、去る五日初めてB29が三十四、五機
 来襲しました。(中略)
 当地の爆撃は八千米(約二里)の高度からでしたが爆弾は狙ったところに
 中々よく中(あた)りました。一体に敵の爆撃は中々上手で、狙ったところに
 大概中ります。東京も愈(いよいよ)爆撃を受ける様になると、恐らく初めて
 「之れがほんとの戦争だ」と云う事が分り「今迄の事はたいした事でなかった」
 と云う事がはっきり分るだろうと思います。”(79ページ)

「之がほんとの戦争だ」は、前線で戦っている兵士だからこその、重みのある発言。

さて、最近ちょっと靖国問題が喧しいので、それに関連した記述を拾ってみました。

昭和20年1月21日、妻宛

“墓地についての問題はほんとの後まわしでよいです。もし霊魂があるとしたら
 御身はじめ子供達の身辺に宿るのだから、居宅に祭って呉れゝば十分です
 (それに靖国神社もあるのだから)。”(131ページ)

自分(栗林中将)の墓地を気にする妻に、物資が窮乏し、物価が高騰し、
衣食に事欠くこんな大変な局面に、墓地などに金や時間を使わないでいいよ、
という感じですね。そういう考え方もあるでしょう。


ページを操っていると、唐突に手紙が終わり、解説に変わります。
それが衝撃でした。
情味溢れる手紙を読んでいる時に、栗林中将の死を突きつけられる。

米軍の硫黄島総攻撃は昭和20(1945)年2月16日。
戦艦6隻、重巡五隻、護衛空母十隻を主力とする大機動部隊が島を包囲して、
軍艦からの艦砲射撃、空母艦載機による爆撃そして銃撃があったそうです。
1日のべ16000機という空からの攻撃で、
3日間で叩きこまれた爆弾が120トン、ロケット弾は2,250発、
海からの砲弾は、3万8,500発。
もうこれで、島の守備隊は全滅しただろう、大丈夫だろうと思って、
米軍が上陸するのですが、そんな大雑把な作戦より、栗林中将のほうが上でした。

“中将は米軍の戦術、彼我の戦力、島の地形などをつぶさに検討した上で、
 大本営の作戦指導で正統視されてきた水際撃滅戦法を、おのれ一存の判断で
 後方防御、それも地下陣地による迎撃戦法へと転換させていた。(中略)
 日本軍の損害は、戦死約1万9,900名、戦傷は約1,000名。
 米軍は戦死6,821名、戦傷2万1,865名。”(半藤一利氏の解説より)

気候が合わず病気に苦しんでいた日本兵が殆どだったにもかかわらず、
そして米軍は、相当な爆撃をした後で意気揚々と上陸したというのに、
米軍の死傷者が非常に多いのです。
栗林中将と兵士達が、最後まで諦めず、よく戦ったということでしょう・・・。
島にいる兵士達だけでは、いくら敢闘しても最後は米軍に奪取されるのは必至。
かといって大本営がこれ以上、硫黄島に割ける戦力はなく、どうしようもなく、
見殺しにするしかなかったのですね・・・。
その後、日本は本格的な空襲に見舞われ、夏の暑い日に、テニアン島から
新型爆弾を積んだ飛行機が飛び立ち、その威力をまざまざと見せつけられて、
栗林中将が亡くなって約半年後、日本は敗戦を認めるわけですね。
彼は、こういう国の運命を予感していたんだろうなぁという気がします。
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